第02回 メルヘンと日本むかし話
メルヘンと日本むかし話
グリム童話の「ヘンデルとグレーテル」はグリムの創作ではありません。
「シンデレラ」や「白雪姫」も同じです。
グリム兄弟が国語辞典編纂のために、国内を旅し、古老からむかし話(メルヘン)を聞いて回りました。そして、
「家庭と子どものためのメルヘン集」として出版したものです。
メルヘンは、清らかな夢のある世界だと思われている節がありますが、実は大むかしのヨーロッパの現実が背景となっています。
樵(きこり)の生活は、貧乏のどん底で、あしたの食事もことかくほどでした。
そこで考えたのが 子捨て です。あわれな子どもを自分の手で始末することもできず森の中に捨ててしまうのです。家に戻っても何度も捨てなおす両親。そんな現実から「お菓子の家」というメルヘンが生まれました。
「びゃくしんの話」では、母親が腹違いの息子の首をはねて、輪切りにし、鍋に煮込んで夕飯に出します。後に一羽の美しい鳥が母親にむかって歌います。
「母さんがぼくを殺した 父さんがぼくを食べた 妹がぼくの骨をひろってびゃくしんの木の下に埋めたよ キューウイッツルー」と。メルヘンが生まれるためには、その時代のリアリズムが必要だったことがわかります。
日本のむかし話にも似たような経緯がありました。桃太郎は、貧しい農民の生活をおびやかす鬼退治に出かけます。
猿がカニに青柿をぶつけると、カニはつぶれて、ぐよぐよと子ガニを産むことになっているらしいのですが、これが残酷だからといって批判されてしまいました。
かたき討ちをするのは現代的ではないからといって、話し合いによって解決すべきだと主張します。
臼(うす)が猿をつぶして殺してしまうのは子どもの話としては悲惨すぎるといっては、あやまらせてしまったのです。
心理学を基盤として教育というものが、何百年、何千年という民衆から受け継がれた伝承をゆがめてしまったのでした。
今となっては、「鬼滅の刃」が人気を保っている理由がわかるような気がします。
ゆがめられた民話に対する 反動 とさえ思えてなりません。
童話を書く人は、数多くのむかし話を読むことは大切だと思います。――故きを温ねて新しきを知る――でしょうか。
残酷だからといって、目をそむけてはいけません。残酷だからこそ、人間の弱さや愚かさ、哀しみがわかるからです。
「醜く、汚れた世界を知らなければ、ほんとうに美しいものは書けません……」とは、師匠であった童話作家、立原えりか先生の言葉でした。
浜尾
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