第28回 「絵のない絵本」その前夜
「絵のない絵本」その前夜
アンデルセンの「絵のない絵本」は一度は読まれたでしょう。貧しい画家が月から聞いた33話からなるファンタジーです。「第一夜」はインドの娘のはなしで「昨日のことですよ」と月が読者に語りかけます。ガンジス河に自分の姿を映してみた月は、茂みの中から美しい娘が出てきたのを見つけます。 月は娘のうすい肌をとおして心の中が透いて見えるのです。娘の婚約者は今、戦場にいるのでした。娘は河岸によって、皿の上に立てた火が灯ったローソクをそっと水に浮かべます。灯りは流れを下っていきます。灯りが自分の目に見えるかぎり消えずにいたら、愛しい人は生きていることを娘は知っていました。もしも途中で消えたら、この世の人ではないことも。
「あの人は生きている!」と、喜びの声をあげると、山彦が返ってきました。 「あの人は生きている!」
※「第一夜」は希望に満ちた余韻を残しているのが名作らしい結びといえます。古来より信仰対象になっているガンジス河には、ランプに火を灯して祈りを捧げる儀式があるようです。そこで、娘がなぜガンジス河にやってきたのかを繋げる前夜を書いてみました。
その前夜
「どうしても行ってしまうの?」
と、娘は涙をためながら若者を見上げました。大きな菩提樹の下で、娘は必死に訴えていますが、若者はうなずくだけでした。
「しかたがないんだ、わかってほしい……」 若者はそれだけを呟くと、婚約者の小さな頬に口づけをしました。カースト制度のなかでは、兵士は国のため任務を果たすしかなかったのです。「どんなことがあっても死んではダメ! お願い、死なないで……」
娘は彼の胸に顔をうずめながら、何度もくりかえすばかりでした。
月日が流れました。娘は毎日、若者を心配して祈りました。が、祈るだけでは不安がつのるばかりなので、ある日、山に向かう決心をしました。その山に入れば、愛しい人の生死がわかると知ったからです。
小さな皿と、火を灯した松明を持って登り続けました。中ほどまで歩くうちに、娘の足は、いばらで傷だらけになっていました。 そのうちに、力つきて、動けなくなりました。あたりが薄暗くなったころ、炎がゆらめいて、娘の黒い瞳だけがぼんやりと浮かびました。と、ヘビがのっそりと娘に近寄りました。その動きに気づいた娘は立ちあがって山に向かいました。ふと、耳をすませると、とうとうたる水音が聞こえるではありませんか。
娘は皿の上に立てたローソクに火をうつし、(あの人は無事かしら?)と、そのことだけを考えながら、大きなガンジス河に向かって進んでいったのです。
浜尾
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